荒川静香選手のフィギュアスケート女子シングルでの感動的な金メダルなどで記憶に新しい2006年トリノオリンピックですが、もう一つ涙なくしては語れないドラマがあったことをご存知ですか?アメリカ代表としてジョン・ボールドウィン選手とペアを組んで出場した井上怜奈選手の人生は、あまりにも壮絶で、また感動的でもあります。今日は井上怜奈さんの半生を文章と動画でご紹介したいと思います。
1976年に生まれた井上怜奈は、小児喘息を患っていたことから父親の意向で4歳からスケートを開始、15歳の1992年にアルベールビルオリンピックにフィギュアスケートのペア部門に小山朋昭選手と組んで出場、日本人最高位の14位となりました。その後井上選手の怪我でペアは解消。
(動画)『井上怜奈・小山朋昭ペア アルベールオリンピック』
17歳の1994年にはリレハンメルオリンピックにフィギュアスケート女子シングルで出場したものの、ミスを連発してしまい不本意な結果に終わってしまいました。(なお、アルベールオリンピックの2年後にリレハンメルオリンピックが開催されているのは、この時から冬季オリンピックが夏季と同年開催から、夏季の中間年開催に変更されたため。)
次の長野オリンピックへの出場を目指していた20歳の時に井上さんのスケートをずっと応援してきてくれた父親が肺ガンで死亡、支えを失った彼女自身も力を発揮できずオリンピック出場を逃すという挫折を経験、しばらくスケートをやめていた。
彼女の母親はその時「もうやめて当然だな」と思ったそうです。普通の人だったら当然やめてたでしょう。ところが彼女は違いました。ある日彼女はスケート靴を持って練習に向かったんです。スケートを再開した理由をお母さんはずっと分からなかったのですが、後の2006年トリノオリンピック前のインタビューで「お父さんがいなくなって落ち込んでいるお母さんを元気付けようと思いもう一度始めた」という事が分かりました。その事をトリノで知ったお母さんは応援に来てるのに、涙で演技が見れなかったそうです。
その後彼女はペアを求めて渡米したが、22歳の時に自分も父親と同じ肺がんになり、通院による抗がん剤治療を受けながら、強い副作用に苦しみながらもスケートの厳しい練習とアルバイトを続けようと頑張った。そんなある日、井上怜奈さんは練習中に激しく転倒し、頭蓋骨を骨折し前歯の多くを失い、意識不明に陥るという大怪我を負ってしまう。それがきっかけで、心的外傷後ストレス(PTSD)も患ってしまう。
更にその後再び転倒し、卵巣が片方破裂し入院、卵巣摘出手術を受けるというアクシデントも経験している。
抗がん剤のおかげで彼女のガンは約半年で完治したが、体調不良やブランクなどからしばらくは不調の日々が続く。そんな中彼女が23の時、同じく不調だったジョン・ボルドウィンと出会いペアを組む。
二人のペアは最初中々成果を出せなかったが、お互いを尊敬し信じ続けた結果、2004年の全米選手権で優勝、日本国籍を捨てアメリカ国籍を取得し挑んだ2006年トリノオリンピックでは、メダルを狙ったものの7位入賞に終わるが、ペアで五輪史上初めてスロートリプルアクセルを成功させ、エキシビションにも参加するなど充実したオリンピックとなった。
その後一時引退を表明するも、二人揃って現役続行を宣言、2008年の全米選手権では演技終了後に公私に渡って良きパートナーであり続けたジョン・ボルドウィンさんがひざまづき、井上さんの両手を握り「「残りの人生を一緒に過ごしたいのは君なんだ 結婚してくれるかい?」とプロポーズをすると、彼女は涙ぐみながら「はい」と答えた。まるでドラマのような氷上での最高のプロポーズ。
(英語動画)フィギュアスケート井上怜奈選手がペアのジョン・ボールドウィン選手から氷上プロポーズを受ける映像
彼女の壮絶な人生を知っただけに、涙なくしてはみられません・・・・。
(英語でしゃべらナイト動画)井上怜奈さんの生い立ちやジョンとの熱々ぶりが伺える動画
(英語学習用動画)トリノ五輪前の井上怜奈の英語インタビュー動画。アメリカに長期間滞在してるだけあってかなり流暢な英語。
<<関連サイト>>
『井上怜奈 – Wikipedia』・・・いろいろ。
『ガンとの闘い – 夢は無限』・・・井上怜奈さんの父親が肺がんで亡くなってからジョンと出会うまでのエピソードが詳しく書かれています。
『アフラックストーリー8 井上さん篇』・・・彼女の闘病生活やプロポーズ等をドキュメンタリーにしたガン保険AflacのCMやエピソードを見ることが出来ます。